旧暦(太陰太陽暦)の仕組み
月の満ち欠けが一ヵ月
新月から新月、満月から満月までの周期は平均で29.5日です。これを一ヵ月とするのが太陰暦です。 日本では明治5年まで、ひと月をこの太陰暦で過ごしてきました。新月から次の新月までを一ヵ月とし、15日は十五夜で必ず満月でした。 ちなみに一ヵ月は29日か30日で、現在のような31日の月はありませんでした。
太陰暦は一年で約11日ずれる
月の満ち欠けで一ヵ月を表すやり方は、街路灯などない時代には直観的でわかりやすい方法でした。 ただし12ヵ月で354日にしかならないため、一年で約11日の不足が出ます。3年もすれば1ヵ月以上のズレが出る計算です。
数年に一回「うるう月」をはさむ
1年が12ヵ月のままだと12年も経てば正月がお盆のころになってしまいます。 それではまずいので、数年に一回「うるう月」を挿入して1年を13ヵ月にします。例えば「うるう五月」がある年は、五月が二回あるわけです。
「うるう月」は19年に7回の割で
1年が365.24日であることはいまでは一般常識です。太陰暦は一年あたり11.24日少ないので、19年に7回の割で「うるう月」をはさみました。 ひと月が29日か30日かで端数を調整しながら月の運行に合わせます。
二十四節気は太陽暦
いつ「うるう月」をはさむかは、太陽の動きに沿ってつくられた二十四節気を基準にして決めました。太陰暦は太陽との運行に最大で1ヵ月以上のずれを生じます。 農耕には太陽暦のほうが便利です。それを補うのが二十四節気でした。「立春」とか「大寒」とかいうあれです。明治5年まで使われた日本の暦は、かなり完成度の高い太陰太陽暦でした。
旧暦と新暦のズレは初めから
太陰太陽暦から太陽暦のグレゴリオ暦(西暦)に変わったのは、明治5年12月3日からです。この日が明治6年1月1日となりました。 この時点でほぼ一ヵ月の差がありました。太陰暦はもともと一年が短いから「うるう月」で調整するまで差が開きます。
忠臣蔵の討入の日を新暦に直すと
忠臣蔵の討入の日は元禄15年12月半ばの14日とされていますがこれは旧暦です。西暦(新暦)に直すと1703年1月30日となります。 1月末なら雪が降ったというのもうなずけます。その代わり満月は見えなかったかも。
旧暦では年の瀬ですが、新暦だと新年早々、物騒な事件を起こしたことになります。同じ日なのに暦が変わると受ける印象がまるで違ってきます。
現代に色濃く残る旧暦の慣習
太陰太陽暦から新暦に変わって150年近くなるのに、いまだに旧暦時代の慣習が残っていて、季節に違和感を覚えることがあります。 年賀状によく使われる「迎春」や「新春」がよい例です。これから真冬に向かっていくというのに「春」をうたうにはちと早すぎる気がします。
アジア圏では正月を旧暦で祝う国が多数派です。2月ごろなら確かにもうすぐ春ですね。どうやら旧暦との一ヵ月ほどのズレが季節感を狂わせているようです。
五月晴れは梅雨の合間の晴れ
5月の大型連休中に天気がいいと、よく「五月(さつき)晴れ」という言葉が使われます。実は旧暦時代には、梅雨の合間の晴れ間を指す言葉でした。 「皐月(さつき)」を5月に充てたのが「誤解」の始まりです。6月に充てた水無月(みなづき)は梅雨明けで水枯れの意味だし、すべてひと月からひと月半ずれています。
『五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川』 松尾芭蕉は旧暦の人だから、詠んだのは梅雨時の新暦6月ですね。
七五三の11月15日は新暦
七五三行事を全国的に11月15日にするようになったのは明治になってからです。雪国では10月15日のところもあります。 満月の15日は鬼の出ない「鬼宿日」だからという説があり、太陰暦の影響が色濃く残っていますが、新暦の11月15日で間違いないと思います。 七五三行事に関しては一部の地域を除いて「旧」という概念はないようです。