七五三など子供にまつわる行事の由来と現状をまとめてみました

七五三行事のルーツを探る

supervised by STUDIO DINO

呼び名が定着したのは近代

子供の成長を祝うのは古来から

現在使われている「七五三」という言い方が定着したのは、明治以降の近代になってからです。それまでは武士などの階級や地方によって様々な形で行われていました。 起源が何かは諸説ありますが、いずれにしても子供の成長を祈願したり祝ったりした行事が始まりだったのは間違いないでしょう。

ルーツは中国の道教?

大陸とは卑弥呼の時代からつながりがあり、古代東洋人の思想や文化に大きな影響を及ぼしました。儒教や道教は大陸から伝わった教えですが、そのうち道教の「天地三歳論」がルーツという説です。 生まれて一歳は天の神、二歳は地の神、三歳になってはじめて人の子となる考え方です。「三つ子の魂百まで」というやつです。

五歳は地上の気(五元素)を毎年ひとつずつ、すべて受け継いだ祝いで、「五行論」に基づいているとか。それに天の気(太陽と月)が加わる七歳が、一人前の人間になる節目なんだそうです。 行事の起源というより、物事の考え方のルーツですね。「男女七歳にして席を同じゅうせず」(これは儒教か…)

起源は「お犬様」の徳川綱吉?

徳川綱吉

七五三の起源としてよく挙げられるのは、「生類憐みの令」で知られる第5代将軍・徳川綱吉が、長男(徳松)の健康を願って天和元年11月15日(旧暦)、大々的に祝儀を行ったというものです。 天下の大将軍がすることだから、大名を筆頭に武士階級に広まったことは想像に難くありません。暦は違うものの11月15日というのがミソですね。

広めたのは「呉服屋の陰謀」説

徳松君の祝儀に倣った武家の風習は、江戸中期には形を変えて町人の間にも広まります。呉服屋が商機として売り込んだ結果、というのが定説です。江戸時代、武家の風俗は庶民の憧れの的でした。

一般庶民というよりは、呉服屋が出入りするような特定の富裕層だったと思われます。この傾向は戦後の高度成長期まで続きます。呉服屋と接点のない家は、七五三行事とも無縁でした。

現在の盛況は「写真屋の陰謀」?

もう何年も前になりますが、呉服屋の主人から「浴衣はスーパーに取られ、七五三は写真屋に取られ…」とグチを聞いたことがあります。 ここでいう写真屋とは写真スタジオのことですね。七五三衣裳は呉服屋で買うものではなく、写真スタジオでレンタルするものに変わりました。

少子化の中で、一度しか使わない七五三衣裳を低価格でレンタルできたことが、一般庶民に一気に広まる起爆剤となりました。 この世代の親は、幼稚園や保育園で横につながっています。

現代には現代の七五三がある

七五三

いまのような形態になったのが明治以降。一般庶民がこぞってやるようになったのがつい最近。ということは伝統行事であって伝統行事でないようなもんです。 ここぞ商機とばかりにブランド子供服のメーカーまでが七五三市場に参入しました。呉服屋が牛耳っていた時代には考えられないような状況です。それに誘われるように新規に参加する家庭も増えました。

子を思う親の心は昔も今も同じ

時代とともに行事のやり方や推進役が変わっても、子を思う親の心は昔も今も変わりません。 子供の成長を祝うのが主旨だから、形式にこだわるよりも成長した姿を記録として残してあげることが大切です。

記録を残すなら写真スタジオへ

七五三衣裳は非日常を演出する一種の小道具みたいなもんです。撮影時の衣装をレンタルする写真スタジオもあります。神社仏閣にお参りするのはハレの行事です。 古典的な和装でなくてもフォーマルな洋装で構いません。洋服ならほかにも使う機会があるしね。まずは記念に写真を撮ることです。思い出の記念写真はいつまでも残りますから。いつまでも…


[監修] フォトスタジオ・ディノ

名古屋市天白区八事天道312番

※スタジオディノは八事にある写真スタジオ(写真館)です。お子様の成長を記録に残すお手伝いをしています。